ただの言葉

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シュレディンガーの結婚と自担と狭間

はてなブログを開く」というおよそ3年ぶりの行為をする理由が、「加藤シゲアキの結婚」に際しての己の混乱の吐き出しになるとは思っていなかった。

 

 

そもそも加藤シゲアキが結婚したのかきちんと視認して理解する前に「加藤シゲアキ結」あたりでインターネットを介しても伝染する怪異を目にしたぐらいのスピードで自分のTLに戻ったので、本当に加藤シゲアキが結婚したのかは今現在も分かってない。なので下手をすると杞憂で暴れるカスの杞憂民になってるのかもしれない。結婚していたのならおめでとうだし、結婚してないのなら私の首が皮一枚繋がったことになる。でも多分、ちょっとよく分かんないけど、TLから察するに、多分、多分結婚した、らしい。おめでとうございます……??

 

こんなもんを書く前にきちんとトレンドを確認して「加藤シゲアキの結婚」を確定させるべきなのは分かっているが、残念ながら私の所在地は現在サンマリノにある。勿論物理的な位置ではなく、Twitterの位置設定的な「それ」ではあるが。ただしどうやらサンマリノではTwitterを使う人間の方が圧倒的に少ないらしく、トレンド1位を飾っていたのは「#ノイミー5周年コンサート」だった。そうはならんやろ。なっとるやろがい。目的が達成出来なかったので少し座標をずらしてイタリアにしたところ「現実からの逃避の手助け」という仕事をしてくれたので今回は不問とした。何の話だ。

 

そこまでして私が「確認」を取らないのは何故か。

 

シュレディンガーの結婚」にしたいからだ。

 

確認を取るまでは猫は生きていて、それと同時に死んでいる。開けた時に猫が生きている確率は二つに一つ。しかし、今回に限り、箱を開けると猫という名の私の死は確定する。ならば猫には生死の狭間で揺蕩ってもらおうというわけだ。星々の狭間ではなくて申し訳ないけれど、生死の狭間も案外居心地がいいのかもしれない。

 

とにかく、今蓋を開けてしまうとそこには昔ちょっと憧れていた先輩の結婚をFacebookで知った時のような、「別に今後何かあると本気で思っていたわけではないが、『可能性はゼロじゃない!』なんてふざけていたものが『明確なゼロ』になったと分かってしまった」みたいな真綿で首を絞めるような穏やかな死があるのだ。まぁ真綿だろうが絞殺されている時点で穏やかではないけれども。

 

とはいえ私は実際に「昔ちょっと憧れていた先輩の結婚をFacebookで知る」という経験をしたことはないのだが。加藤シゲアキがその当時の「ちょっと憧れている年上の格好いい男性」を担ってくれていたから。高校生だった当時の私にとって、賢くて、選ぶ言葉が面白くて、私が知らない知識を沢山持っていて、色んな音楽を教えてくれて、それでいてとんでもなく顔がいい男、加藤シゲアキのことだ、なんてのは甘く艶やかで魅惑的な毒物にも等しかった。加藤シゲアキを自担と定めたことは人生で数少ない断言出来る「大正解」であれど、それと同時に、主に男性に対する理想がアホほど高くなってしまったという意味で、数少ない大失敗だったのかもしれない。

 

その上、アイドルの加藤シゲアキを好きになる前から著書を追っていた「好きな作家」でもあったわけだから、もう東京の西の端の森の中で自由奔放に過ごす数歳年上の男性陣なんて、加藤シゲアキとは胡蝶蘭オオイヌノフグリぐらいの差があった。勿論その差によって生じる優劣は無いけれども。だから何の話だ。

 

なので今回の言語化は「過去の体験から似た感情を引っ張り出す」というよりは、「過去に読んだ文献での表現から連想される感情を、現在自分が抱えているそれと比較しそれらしい言葉を選びとることで自身の現在の感情を理解する」というプロセスに近いのだろう。現状を正しく理解することは、どうしようもない混乱を処理するのに大切なのである。ちなみにこの蛇足としか思えないこの段落はただの現実逃避なので、混乱を正しく処理することに繋がるかと言われると甚だ疑問ではあるのだが。

 

とはいえ、その時の感情を書き残す(今回においては吐き出す・放り投げる・書き散らすの方が表現としては近いかもしれない)ことは私にとってかなり大きな意味を持っている。推しの楽曲に頭をぶん殴られた時も、推しが失踪した時も、推しの死亡確認を取った時も、私は文章を書いてきた。多分、書かないと死ぬのだと思う。なんか、心とか精神とか、そういう肉体とは違う何かが。

 

実際意味の分からない言葉を書き連ねて(書き散らかして)約2000文字を錬成した今、私の気分は第一報でぶん殴られた時よりは幾分かマシになっている、ような気がする。

 

加藤シゲアキが結婚した……?」という混乱から、「加藤シゲアキって結婚する時間あるんだ……」という一定以上加藤シゲアキを知っている人間には共感してもらえそうな困惑に思考が進んだし。「そろそろこの文章をまとめるようなことを書かなきゃなぁ」なんて考える余裕が出てきたし。チラシの裏以上の書き散らかしにまとめも何もあるかというのはそうだけれども。

 

それでも、「もう少し落ち着いたら加藤さんのコメントでも読もうかな」なんて気分にはなってきたし、それより先にちゃんと「加藤シゲアキの結婚」を事実として受け入れられるのだと思う。というか「加藤シゲアキの結婚に対する逃げ道を失った時、私はどのような感情を抱くのか」という興味の方が勝ってきたので暫くしたら勝手に公式コメントを見るし、なんかこう、上手いこと色々やれると思う。

 

中丸雄一が結婚した時もそうやって上手いことやれたし、自分が集合体恐怖症だと認識した上でなにでその症状が出るのかを知るために色んな画像を見比べて結論を出すことも出来たのだから、加藤シゲアキの結婚について調べるぐらい出来るだろう。中丸雄一の結婚を受け入れることってそこと同レベルだったんだ、と自分が書いた文章を読んで改めて思ったことはここだけの秘密にしておいて欲しい。

 

その時こそは大手を振って、「加藤さんご結婚おめでとうございます! 来来来世ぐらいでは私とも結婚してください!!!」ぐらいのことは言えるようになるんじゃないかと思う。それまではもう少しだけ、猫とふたりで「狭間」を揺蕩っておこうと思う。